幼な子
─夏目漱石の『坊っちゃん』
  
「地獄といわれようが、何といわれようが、ほんとうは楽しいはずですよ。たしかに地獄は苦しいものかもしれませんが、若い人にとって、はたして天国が楽しいものかどうか……、蓮の花の咲いた綺麗な池の横で、お釈迦さんと一緒にじっと座っているなんて、お年寄りにはいいでしょうが、若者は退屈してしまうんじゃないですか。そんな退屈なところに較べれば、地獄なんて、むしろ楽しさいっぱいの面白いところといえるでしょう」。
長嶋茂雄
  
 父直克五十歳、母千枝四一歳のときに、五男三女の末っ子として生まれた夏目漱石(一八六七─一九一六)が、それまで務めていた高等師範学校を辞職して、松山中学に赴任したのは、一八九五年、二九歳のときである。しかし、彼は、はやくも翌年には、熊本の第五高等学校へと転じている。同じ年に、中根鏡子と見合い結婚した。一九〇三年、漱石は、イギリス留学から帰国して、一高と東大講師となるものの、次第次第に留学中から悩まされていた精神疾患にひどく苦しめられ、一時は妻子と別居するまでに悪化し、教職を辞めたいと考えるようになっていった。一九〇五年、彼は高浜虚子に神経症の自己治療のためにと勧められて『吾輩は猫である』を書く。それが好評だったため、続けて『倫敦塔』他四つの短編を発表する。翌年の一九〇六年に、漱石はたった一年たらずしか務めなかった四国の中学校を舞台にし、江戸っ子を主人公とした二作目の小説『坊っちゃん』を書いた。『坊っちゃん』は、『吾輩は猫である』に劣らない、ベスト・セラーとなったのである。『坊っちゃん』は、小宮豊隆によると、わずか一週間あまりで、ほとんど字句の訂正もなく、一気に書きあげられている。漱石は同じ年に次の作品として発表した『草枕』は、『坊っちゃん』と同じ時期に書かれたものとは思えないほど、趣が異なっている。漱石は、わずか二年間に、まったく違った形式と内容の作品を書き上げたことになるのだ。
 この『坊っちゃん』は、おそらく、日本文学の中でも最も有名な作品の一つであるが、そのプロットは次のようなものである。物理学校を卒業後、四国の中学校に数学教師として赴任した主人公坊っちゃんが、そこでさまざまな人や出来事に遭遇するが、最後には職をなげうって、東京に帰り、街鉄の技術職員になり、女中の清と、彼女が死ぬまで、一緒に暮らしたという単純なものである。
 『坊っちゃん』では、主人公は教師であり、中学校が舞台の一つになっている。漱石の題材の選択はただ自分の経験を書こうとしたからでも、諷刺をこめることを意図したからでもない。当時、学校や学生、教師は、文学的・社会的にも、特別な意味を持っていた。と言うのも、そうした存在は、明治に入って、初めて、出現したのであり、それらは日本近代文学の最初の対象でもあったからである。『小説神髄』において写実主義を提唱した坪内逍遥が、一八八五ー八六年に発表した最初の小説は『当世書生気質』だった。これは、『坊っちゃん』とは違い、小説と言うよりも、諷刺的・百科全集的なルポルタージュ形式の作品であるが、ともかく日本の小説は学生を描写することから始まったのである。現在まで、学生や学校を扱った作品が多いだけでなく、新人が台頭する際、それを描くことが不可避的な条件と言ってもいいような状況になっている。文学的対象は、中高生ではなく、大学生である。「青春」を強調する視覚的メディアの場合は、むしろ、中高生の世界を描写する。戦後だけを見ても、大江健三郎の『奇妙な仕事』や石原慎太郎の『太陽の季節』、柴田翔の『されどわれらが日々−』、三田誠広『僕って何』、
 日本近代文学が学校や学生、教師をめぐって出現したことにははっきりとした理由がある。江戸時代までの文学者と明治以後の文学者の決定的な差異は、後者が学校という近代国家の教育機関に通った経験があることである。明治二十年代に日本近代文学が形成されていくが、そのときの文学者は、ほぼ例外なく、学校経験者であった。学校に通ったことがない文学者はこの時期に抑圧されていった。つまり、明治以後の文学は学校と不可分の関係であり、それらは学校が生産したと言っても言い過ぎではないのである。
 明治以前にも、確かに、教育機関はあった。江戸時代には、私塾や著名な学識者に弟子入りして学問を学んだり、読み書きや算術などは諸藩が藩士の師弟教育のために開設された藩校やその延長もしくは庶民教育を目的とした郷校、庶民教育のための寺子屋に行って学んでいた。しかし、学校制度は、明治に入って、初めて登場したのである。
 一八七一年、明治政府は文部省を設立し、一八七二年に、学制を公布した。それは、フランスの学制にならい、全国を八大学区にわけ、その下に中学区・小学区を設置するというものだった。政府は、同時に、「学事奨励に関する被仰出書」(太政官布告)を出し、そこで、国民皆学、教育の機会均等の原則と実学の理念などを明示した。
 小学校は学制によって設立したが、政府は、一八八六年の小学校令で義務教育四年(尋常小学校)を導入し、さらに、一九〇七年、それを六年に延長した。当時は、文部省編纂の『小学読本』や福沢諭吉の『世界国尽』などが教科書として使われていた。
 中学校は学制で上・下等中学が創設された。一八八六年中学校令で高等(二年)・尋常(五年)中学校となり、九四年、高等中学校は高等学校(第一高等学校以下五校)に、尋常中学校は(旧制)中学校になる。
 一八六九年、昌平学校に開成学校・医学校を統合して大学校(大学に改称)を創設するが、一八七一年、廃止となり、開成学校は大学南校、医学校は大学東校として残る。一八七七年、東京開成学校、東京医学校を再び統合し、文部省所管の下に創設され、法・理・工・文・医の分科大学と大学院により構成される大学校となった。さらに、一八八六年、帝国大学と改称、一八九〇年、東京農林学校と合併、一八九七年、京都に京都帝国大学が設立したため、東京帝国大学と再度改称(以後全国に増設し計九帝大)することになる。一九一九年、大学令によって学部制が採用れる。
 一八七九年、文部省はアメリカの教育制度を参考にした教育令を制定した。学区制が、その代わりに、廃止となる。そこでは小学校の設立経営を町村の自由裁量とし、義務教育を十六ヵ月としていた。しかし、翌年、全面的に改正され、中央集権化を強めた改正教育令となった。政府は、一八八六年、学校令(帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令)を公布、一八九〇年には、あの教育勅語を発布し、さらに、一九〇三年、国定教科書制度が採用された。
 こうした教育に関する法令は、実は、軍事的な法令と同時に公布されている。徴兵告諭は学制が公布された一八七二年のことであり、翌年、徴兵令が公布されている。学制と徴兵制は中央集権的な近代国家建設の中心的な役割を担っていたのである。政府は、学制と徴兵制によって、明治以前に存在した多様なる差異を破壊し、中央集権的な同一性を形成することを企てたのだ。このような近代国家建設の制度が幕藩体制に生きていた人々に受け入れられるわけもなく、血税騒動に代表される各地で学制と徴兵制に対する反対・抵抗運動が一八七三ー七四年の間起こっていたのである。しかし、政府による取り締まりの強化の結果、それは次第に沈静化していった。七四年から、士族の反乱も相次ぐが、政府は強行策によって七八年ごろまでにはほぼ完全に鎮圧した。徴兵によって組織された新しい軍隊に武士は敗北したのである。武力に基づいていた武士の存在意義は、江戸時代まで非戦闘員だった身分のものたちに負けたことによって、(実質的にはすでに元禄期までに消えていたが、形式的にも)完全に失われたのだ。その後、士族の運動は自由民権運動に吸収されるが、明治二十年代には消滅してしまい、中央集権化は達成される。けれども、徴兵や学制などの中央集権化は士・農・工・商を破壊したのではなく、結果としては、「昭和維新」が叫ばれることになるように、新たな士・農・工・商を生み出すことになっただけだった。
 このように形成された近代国家の世界にあって、日本近代文学は出現した。社会的・歴史的・文学的背景の中で、漱石の『坊っちゃん』は書かれたのである。そして、それはわれわれがこれから論ずるようなある意味を持っていたのだ。
 現在、漱石の作品を文学ジャンルから考察することが試みられている。例えば、柄谷行人は、いくつかの論考で、ノースロップ・フライの『批評の解剖』の理論−−第四エッセイ「修辞批評 ジャンルの理論」の「持続的所形式(散文フィクション)」−−を援用して、漱石の作品を分類している。それを用いれば、例えば、『吾輩は猫である』はサタイア、『こころ』は告白、『草枕』はロマンス、『明暗』は小説といったような分類が可能である。文学ジャンルから漱石の作品を読むことは、わずか二年の間に『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』、『草枕』といったまったく異なった三つのタイプの作品を書くなど彼が豊潤な形式と内容を書きわけていた点から見て、有意義て、生産性の高い企てだと言ってよいだろう。漱石は、確かに、さまざまなジャンルの作品を書いたが、ジャンルと彼の作品の関係には特徴がある。彼はドストエフスキーのように一つの作品に多くの異質な文体を招き入れたのでも、ジェームズ・ジョイスのように一つの作品の中に多様なジャンルを導入したのではなかった。漱石において、主題や構成はともかくとしても、一つの作品は、エドガー・アラン・ポーの場合のように、一つの文体と一つのジャンルで統一されている。漱石は多様な差異を一つのものによって抑圧・隠蔽することはせず、それをあるがままに提示しようとしたが、彼は生を作品として書くのではなく、書くことを作品において意識化したのである。漱石は、一九一一年の講演『中味と形式』において、「そこで現今日本の社会状態というものはどうかと考えて見ると目下非常な勢いで変化しつつある。それに伴れて我々の内面生活というものもまた、刻々と非常な勢いで変わりつつある。瞬時の休息なく運転しつつ進んでいる。だから今日の社会状態と、二十年前、三十年前の社会状態とは、大変趣きが違っている。違っているからして、我々の内面生活も違っている。すでに内面生活が違っているとすれば、それを統一する形式というものも、自然ズレて来なければならない」、と言っている。書くことが生にいかなることをもたらすのかということが漱石の試みだった。彼は、それゆえ、一つの作品において一つの文体と一つのジャンルに絞る必要があったのであり、また文体やジャンルの統一性があっても、主題や構成の面では破綻しているのだ。
 漱石のジャンルに対する姿勢は彼が英文学者であったことと切り離せない。アングロ・サクソン系の文学から文学を読み始めたものは、フランスやドイツなどの大陸系から影響を受けた文学者とは異なった文学的視点を獲得することになるのである。例えば、漱石に先立ち学生に関する小説を書き、英文学から西洋文学を読んだ逍遥にとって、作品を読むことはテクスト・クリティクを意味していた。彼は、「空理を後にして、現実を先きにし、差別見を棄てて平等見を取り、普く実相を網羅し来りて、明治文学の未来に関する大帰納の素材を供せんとする」(『小説神髄』)と言っているように、歴史的な遠近法をとらず、帰納法的に小説を分類している。それはニュー・クリティシズム的な分類と言ってもいいだろう。漱石の『文学論』など文学に関する考察は、逍遥らと同様、ニュー・クリティシズム的である。
 漱石は、『創作家の態度』において、読解について次のように述べている。
 
 今迄述べた三ヶ条はみな文学史に連続した発展があるものと認めて、旧を棄てて漫りに新を追う弊とか、偶然に出て来た人間の作の為に何主義と云う名を冠して、作其物を是非此主義を代表する様に取り扱った結果、妥当を欠くにも拘らず之を飽く迄も取り崩し難きwhole と見倣す弊や、或は漸移の勢につれて此主義の意義が変化を受けて混雑を来す弊を述べたのであります。ここに申す事は歴史に関係はありますが、歴史の発展のとは左程交渉はない様に思われます。即ち作物を区別するのに、ある時代の、ある個人の特性を本として成り立った某々主義を以てする代りに、古今東西に渉ってあてはまる様に、作家も時代も離れて、作物の上にのみあらわれた特性を以てする事であります。既に時代を離れ、作家を離れ、作物の上にのみあらわれた特性を以てすると云う以上は、作物の形式に題目とに因って分つより外に致し方がありません。
 だから詳しい区別を云うと、純客観的態度と純主観的態度の間に無数の変化を生ずるのみならず、此変化の各のものと他と結び付けて雑種を作れば又無数の第二変化が成立する訳でありますから、誰の作は自然派だとか、誰の作は浪漫派だとか、そう一概に云えたものではないでしょう。それよりも誰の作のここの所はこんな意味の浪漫的趣味で、ここの所は、こんな意味の自然は趣味だと、作物を解剖して一々指摘するのみならず、其指摘した場所の趣味迄も、単に浪漫、自然の二字を以て単簡に律し去らないで、どの位の異分子が、どの位の割合で交ったものかを説明する様にしたら今日の弊が救われるかも知れないと思います。
 「浪漫派」と「自然派」は文学史的概念であり、順序として登場しているのだが、漱石はそれらを「歴史の発展」として文学をとらえていない。彼は、ニュー・クリティシズムと同様に、文学を時間的以上に空間的に把握している。アングロ・サクソン系の文学・哲学に影響されたり、親近感を覚えていた書き手はフォルマリスティックである。日本の写実主義は、正岡子規や漱石も含めて、「ジャパニーズ・フォルマリズム」と呼ぶべきものである。一方、逍遥と没理想論争を行った森鴎外はドイツ文学から西洋文学に入った。鴎外の文学作品の読解は演繹的である。没理想論争は帰納法と演繹法の対立と言っていい。結局、逍遥らの理論は、鴎外らドイツ・フランス系によって、抑圧され、日本文学批評において主流にはならなかった。それは、すでに述べたように、学校や教育に関してもフランス・ドイツ系の制度が選択され、アングロ・サクソン系のものが排除されていったことからも強調されよう。
 ここでわれわれは注意しなければならない。と言うのも、日本の英米文学研究者の間でとられている読解の方法論は理論的と言うよりも、経験的色彩が強いからである。逍遥や漱石は新しい訓詁学者としてふるまったわけではなかったにもかかわらず、後の英米文学者たちは必ずしも彼らのようなフォルマリスティックな発想はとらなかったのだ。確かに、アングロ・サクソンの思想家は必ずしも体系的ではないどころか、英米文学批評や哲学でも分類が主流だったとは言いがたい。むしろ、カントに代表されるドイツ哲学のほうが体系的でカテゴリー化している。この秘密はニュー・クリティシズムの誕生が明らかにしている。ニュー・クリティシズムは、経済的不安から社会的に混乱した一九三〇年代にアングロ・アメリカ北部の左翼勢力による社会志向の批評に対抗して、南部の詩人や学者たちの間からアングロ・サクソン的伝統への回帰として生まれた。彼らは作品を帰納法的に読むことを極限化した。彼らは作品の読解を社会・歴史志向ではなく、対象・言語志向へと転回した。つまり、アングロ・サクソン的な帰納法に基づいたフォルマリスティックな読解は、ドイツやフランスの体系的理論の影響が強まったときに、それを読みかえる形として表われる。ニュー・クリティシズムの代表的批評家としては『動機の文法』のケネス・バークや『批評の解剖』のノースロップ・フライなどがあげられるが、彼らの読解は歴史的よりも空間的な分類の傾向が強い。つまり、日本の英米文学者はそれを自律したものとして扱い、他の文学を顧みることがなかったため、直観的・印象的・経験的色彩の強い読解を展開したのである。
 逍遥や漱石らの作品には伝統的学識や道徳的厳格さ、ユーモアに溢れた言葉が見られる。彼らは伝統を拒まなかったが、ただ伝統に回帰するのでもなかった。明治の文学者・哲学者たちには日本の古典文学・哲学だけでなく、漢文学や東洋哲学の素養があった。他の知識人たちと比べて、逍遥や漱石らは、そうした教養に帰納法的な思考が加わったことによって、伝統ともわりとはやめにおりあいをつけることができたのである。彼らの伝統との和解を歴史主義的な鴎外は並列的だと批判する。確かに、明治以前の日本文学と西洋文学との間には、その思考が根本的に異質である以上、違いが横たわっている。明治以前の伝統的思考と西洋の思考との差異は、ギャンブルから考えてみると、明瞭になる。イギリスやアメリカなどで、古代ローマではサイコロ賭博が、王政フランスではカード賭博が盛んだったのに対して、競馬スタイルのギャンブルが発達した。競馬は極めて帰納法的な予想に基づいたギャンブルである。一方、サイコロは、歴史記述が盛んだった古代ローマの中でも最もすぐれた歴史書であった『ガリア戦記』の作者だったカエサルが「采は投げられた」と言ったように、神秘主義的なギャンブルであり、またカードは、デカルトが夢中になっていたように、演繹法的なギャンブルなのだ。神秘主義的ギャンブルは神に対して賭けるし、演繹的ギャンブルはプレーしている本人が自分自身に対して賭けるのだが、一方、帰納的ギャンブルは代理人に対して賭ける。現在の日本では、競馬スタイルのギャンブルが、確かに、サイコロやルーレット、スロット・マシーンなどの神秘主義的なものも、麻雀やカード、花札などの演繹的なものも普及してはいるが、最も盛んである。しかし、古代ローマと同じ軍政だった江戸時代までは、サイコロ賭博や宝くじが流行していた。江戸時代の日本の社会的・文化的状況は古代ローマのそれと似ている。「ギリシア・ローマとはいうが、『ギリシア数学』はローマに継承されなかった。『ギリシア哲学』については、なおもアテナイの残光があり、犬儒派などの東方ギリシア起源のものもアテナイへと集中し、新プラトン派とともにローマ文化人に影響するのだが、学問的創造性よりは体系的形式性へ関心はうつった。政治や歴史を論ずることへと、『ギリシア文化』は変質してしまった。(略)しかし、この時代の基調は神秘主義であった。航海の発達と測地術の追及にもかかわらず、当時の地図においては、正確性よりも宗教的主観性が優先するようになる。『宗教の時代』なのである。しかも、異教文化のギリシア・イデオロギーにしがみつこうとすればするほど、それは『純粋性の理念』に硬直せざるをえず、測地よりは古典註解に向かわざるをえない」(森毅『数学の歴史』)。確かに、ローマ法というヨーロッパ法の源流の一つを後世に残したものの、ロンギノスやプロティノスに代表される軍政古代ローマの哲学者は、古代ギリシアと比較すると、その創造性において、見劣りせざるを得ない。もっともルネサンスになると、中心地がイタリアにあったせいか、建設的だったギリシア文化ではなく、キケロやセネカなどのローマ文化が復活してくるのだが。江戸時代も朱子学の「宗教の時代」であり、「古典註解」にすぐれた伊藤仁斎や本居宣長などが活躍していたように、江戸の「文化人」たちは「学問的創造性よりは体系的形式性へ関心」を持っていた。江戸文学はそのような思考が支配していた時代から生まれたのである。漱石らはあくまでも明治以前の文学を帰納的に読みかえたのであって、帰納法的な思考に基づいていた彼らが素朴に江戸回帰を主張していなかったことは、こうしたことからも、明らかだろう。
 このように分類を意識していた漱石の『坊っちゃん』も、当然、ある文学ジャンルに所属している。しかし、『坊っちゃん』に関しては、ジャンル論によって考察している柄谷も言及していないように、ジャンル論から読まれることはほとんどなかった。『坊っちゃん』は、一読してわかるように、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』に代表される一人の人間の成長を描く教養小説とは著しく異なり、物語が終わりを迎えても、主人公には精神的な発展性がないのだ。精神的変化は、近代小説とは違い、関心になってはいないのである。『坊っちゃん』は、言ってみれば、形式的には、叙事詩なのだ。けれども、それは、『坊っちゃん』が、ジョイスの『ユリシーズ』がホメーロスの『オデュッセイア』をモチーフにして書かれているような、既存の叙事詩をモチーフにしたことを意味しないのである。なるほど、『坊っちゃん』は英雄や神々の世界とは無縁であることは否定できない。主人公の坊っちゃんは、アキレウスやオデュッセウス、ファウスト、ツァラトゥストゥラに比べれば、はるかにスケールが小さい。彼は神でも、英雄でもなく、中学校の一数学教師であるにすぎない。清はオデュッセウスの妻ペーネロペイアには及ぶべくもないだろう。舞台もトロイ戦争など雄大ではなく、主に四国松山である。また、『イリアス』はヘクトルの葬儀のシーンで、『オデュッセイア』は女神アテーネーがオデュッセウスを諭すシーンで、ゲーテの『ファウスト』はファウストが天使に迎えられるシーンによって、終わりを告げる。『坊っちゃん』のエンディングは、それらに比べると、あっさりしている。そこからは亡くなった清の墓が養源寺にあることが書かれているだけで、赤シャツや野だ、うらなり、マドンナ、狸、山嵐だけでなく、坊っちゃんがどうなったのかもわからないのだ。登場人物たちのその後は読み手が想像するしかないのである。しかし、文学の評価基準を「カタルシス」(アリストテレス)とするか「エクスタシー」(ロンギノス)とするか、すなわち構築とするか過程とするかは、叙事詩的であるか抒情詩的であるかによって決定されるのであるし、また叙事詩の中にも、悲劇的叙事詩や喜劇的叙事詩、ロマンス的叙事詩、神話的叙事詩などさまざまな様式がある。涙をわきおこさせるものが悲劇であり、笑いを誘うものが喜劇であるという区別は素朴である。悲劇には共同体からの訣別・追放、他方、喜劇には共同体との融和・同化の傾向がある。プロパガンダ的な作品は、その意味において、叙事詩的であるエイゼンシテインの『戦艦ポチョムキン』など例外はあるものの、悲劇的ではなく、喜劇的様相を呈している。『坊っちゃんは』かつて喜劇として理解されてきたが、今日では悲劇として解釈する試みが主流となっている。そうした読解として片岡豊の『〈没主体〉の悲劇−「坊っちゃん」論』や有光隆司の「『坊っちゃん』の構造 悲劇の方法について」などがあげられるが、それらは『坊っちゃん』をペーソスとして理解している江藤淳の考察を超えるものではない。
 江藤淳は、「『坊っちゃん』について」(新潮文庫『坊っちゃん』解説)において、『坊っちゃん』には「寂しさの認識」にとどまらず「帰るべきところ」を「渇望」する「暖かさ」が「底流」していると次のように述べている。
 
 その言葉は、ほかの誰の言葉でもない漱石の生得の言葉である。つまりそれは醇乎たる江戸弁である。排他的で、リズミカルで、やや軽佻浮薄な趣きがなくもない江戸ッ子弁。そういう言葉でしか語らない坊っちゃんという一人称の主人公を登場させたとき、漱石はそれと同時に、ためらうことなく堂々と勧善懲悪の伝統を復活させてみせた。これはいうまでもなく、二十年前に坪内逍遥が『小説神髄』で説いた近代小説理論への反逆であり、近代以前の小説がその上に基礎を置いていた価値観への復帰である。
 私はかつて、主人公坊っちゃんの原型を江戸期の文芸のなかにたずねるなら、たとえば近松の『国性爺合戦』の和藤内があり、さらにこの系譜を遡れば、近松以前に江戸で流行した「金平浄瑠璃」の主人公にまで行きつくかもしれない、と書いたことがある。この主人公は思慮が足りないが勇壮活溌で、腕力にまかせて勧善懲悪をおこない、結局悪党を退治するのである。
 『坊っちゃん』の善玉たるわが坊っちゃんと山嵐も、紆余曲折の末悪玉の赤シャツと野だを退治する。坊っちゃんの倫理観は単純明快、その行動は直情径行で、インテリ特有の計算や反省などは薬にしたくもない。いうまでもないことながら、英国帰りの大インテリである漱石がこのような主人公を創り出した意味は決して小さくはない。漱石は暗に主張しているのである。外国語も近代思想も、いわんや近代小説理論も、それらはすべて附け焼き刃にすぎない。人は決して、そんなものによって生きてはいない。生得の言葉によって、生得の倫理観によって、生きている。少なくとも彼自身を生かしているものは、近代が与えた価値ではない。……
 しかし、作者漱石は、同時にこのような立場が、無限に敗れつづけなければならぬ立場であることを熟知していた。(略)坊っちゃんも山嵐も、赤シャツと野だを退治こそするが、実はよく考えてみれば単に腹癒せをしたというにすぎない。勝ったはずの二人は辞表を出して「不浄の地」を離れなければならなくなり、おそらく赤シャツと野だは恬として中学校を牛耳りつづけるだろうからである。
 『坊っちゃん』は、確かに、学校を去るのが「善玉たるわが坊っちゃんと山嵐」であり「悪玉の赤シャツと野だ」ではない以上、勧善懲悪という主題から考えれば、大団円で終わらない。主人公坊っちゃんに「偉大さ」がないと、『坊っちゃん』に対抗して書かれた石川啄木の『雲は天才である』は、啄木自身の教師生活をモデルにし主人公が同僚の女教師や生徒と協力して悪玉の教頭グループを追放するというプロットで、勧善懲悪をモチーフとしている。両者は舞台設定では似ているが、まったく正反対の主人公と結末をしているのてある。『雲は天才である』は、『坊っちゃん』に比べて読み得るものではないが、それは勧善懲悪に対する姿勢のせいではない。
 漱石が、『虞美人草』が示しているように、「勧善懲悪の伝統」を意識していたことは認められる。しかしながら、勧善懲悪を主題にすることによって、作品のおもしろさが損なわれるとは限らない。探偵小説には勧善懲悪が入りこんでいるが、そのことによって、話のおもしろさが相殺されることはない。勧善懲悪に対するアイロニーをテーマにした勧善懲悪のパロディー的な作品のほうが、むしろ、書き手のシニカルな態度によって、おもしろみがないことも少なくない。『虞美人草』が魅力に欠けるのは、正宗白鳥が指摘したような勧善懲悪をテーマにしているからではなく、そこに出来事が人間を規定しそして発展させるというダイナミズムが欠けているから、すなわち登場人物が動きの中におかれていないからである。例えば、スタンダールの作品の登場人物は類型的であるけれども、それによってその魅力が損なわれることはない。と言うのも、スタンダールの作品はダイナミズムが魅力なのであり、それが基づいているのは美の原理だからてある。『坊っちゃん』が基づいているのは真の原理ではなく、善と美の原理であるが、『虞美人草』には美の原理はなく、真と善の原理がある。啄木の『雲は天才である』は、『虞美人草』同様、それが基づいている原理に美も真もなく、善だけがあるために、作品からスピードを奪い、つまらなくしてしまうのだ。『坊っちゃん』の場合、登場人物の性格描写は出来事の動きによってなされているのに対して、『虞美人草』においては性格が先に描写され、出来事が後からついてくる。探偵小説において「善とは何か」とか「悪とは何か」などどうでもいいことなのである。それは真の原理と美の原理に基づいている。『坊っちゃん』は善でも真でもなく、美を伝えるのだ。
 江藤淳の解釈は、『坊っちゃん』に対してよりも、むしろ、クリント・イーストウッド主演の映画『ダーティー・ハリー』シリーズにこそふさわしい。主人公ハリー・キャラハンの原型は、クリント・イーストウッドが『ダーティー・ハリー』主演以前に演じてきたように、西部劇の主人公である。キャラハンは悪党こそ退治するものの、映画のラストには警察のバッチを投げ捨て、「帰るべきところ」に帰っていく。そこには「寂しさの認識」にとどまらず「暖かさ」が「底流」している。文学的に言えば、ペーソスはわれわれと同等のレヴェルにある主人公がある共同体に参加しようとするにもかかわらず、そこから排除されるという形態のもので、バルザックの悲劇などに見られる。ところが、『坊っちゃん』は共同体への参与とそこからの排除といった形態ではなく、主人公は能動的に共同体から離れていくものであって、その時間は回帰的ではあるが、循環的ではないから、それは敗北ではない。坊っちゃんは敗北したのだという判断は、ヘクトルの遺体を傷つけることを神々にとがめられたのだからアキレウスは敗北したのだとか、女神アテーネーにたしなめられたのだからオデュッセウスは敗北したのだという議論と何ら変わるところがない。明治以前にあった文学諸ジャンルは近代小説によって抑圧されていったわけだが、漱石はその抑圧に対して批判的であった。その漱石が差異を抑圧し、中央集権化を促進させている学校を舞台と選んだことは、それゆえ、坊っちゃんが学校から去っていくことから、矛盾しない。ある作品がどのジャンルに属しているのかということは内容と形式の両面から判断しなければならないのである。叙事詩は、歴史的に、主人公が神から英雄、一般的な人間へと移り変わっていくと同時に、神話的物語からロマンス、さらにアイロニー文学へと、詩的であったサイレント映画が散文的なトーキーへと移っていったように、移行している。『坊っちゃん』は、坊っちゃんの誕生に関する記述から始まって清の死に終わり、また主人公が精神的発展も遂げないことから見ても、ロマンス構造に基づいている。しかし、ロマンスでは華々しい英雄が困難を克服するのに対して、坊っちゃんは困難に直面してもそれを解決できない。ところが、それが、坊っちゃんにとって、トラウマにもなっていないのだ。江藤淳の主張する「アーサー王伝説」といったロマンス的な叙事詩的なるものが影響を与えているかどうかはわからないが、『坊っちゃん』はロマンスのパロディーと考えられるが、それはロマンス的世界に対する悪意を表わしたアイロニーではなく、いかなる失敗をも忘却することこそを望ましいとした茶番劇なのである。ファルスはキャラクターが変化しない仮面劇の一種であるが、喜劇と違い共同体との融和・同化を迎えることはない。しかし、ファルスは、悲劇とも異なり、その特徴である「道徳的な牽引と反発の感情が喚起され、捨て去られる」(フライ『批評の解剖』)ことはない。ファルスは、悲劇と同様、人間の生につきまとう根源的矛盾を提示するのだが、それを笑い飛ばす様式なのである。ファルスして、例えば、昔話『かもとりごんべい』や『浦島太郎』などがあげられる。ファルスは、その結論からは、何を意味しているのかわからない特徴がある。フライは、『批評の解剖』において、ファルスを「喜劇の非模倣的な形式」と定義しているが、悲劇の「非模倣的な形式」とするべきである。例えば、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』はイエスの悲劇としての福音書に対するパロディー、すなわちファルスなのである。なるほど『ツァラトゥストゥラ』に見られる「哄笑」はユーモアのさりげない笑いとは異質ではないかという指摘もあることだろう。「哄笑」はユーモアと同じ目標を持っており、ユーモアのクライマックス的な笑いが「哄笑」なのである。高笑いと「哄笑」は違う。高笑いは、三島由紀夫がよくしていたように、高見に立って見くだす笑いである。ユーモアや「哄笑」に支えられているファルスはカーニバル的な要素があるが、サーカス的要素は乏しい。サーカスもカーニバルも仮面劇に属している。サーカスは、祝祭の雰囲気をもりあげる道化であるピエロがペーソスを誘うように、「喜劇の非模倣的な形式」である。観客は、例えば、サーカスに空中ブランコの成功を見にいくのであって、失敗にはブーイングを飛ばすだけである。山口昌男の『道化的世界』や『歴史・祝祭・神話』などの論考は、中心的人物から見れば喜劇である世界を周辺的人物から見ることによって悲劇とすることであり、スケープ・ゴートを生み出して共同体との融和・同化をはかる喜劇の持つメカニズムを顕在化することである。それは、言ってみれば、喜劇『ヴェニスの商人』をシャイロットの視点から悲劇ととらえなおすことである。日本文学には叙事詩的作品は、抒情詩的なものに比べて、著しく少ない。それは文学に限った状況ではないのだ。日本のポップ・ミュージックが抒情的であり、ほとんど叙事詩的な作品が見られないのに対して、西洋では、叙事詩的な作品が数多くある。例えば、イギリス出身のレッド・ツェッペリンは、ヘーゲル的弁証法を最も体現している『天国への階段』や『アキレス最後の戦い』、『移民の歌』など極めて叙事詩的な作品を発表している。従って、漱石は、日本近代文学において、叙事詩的作品を書きあげた数少ない作家であり、その意味でも、多くの文学ジャンルを書きわけたと言えよう。
 『坊っちゃん』受容の歴史において、最初は物語に、後に主題へと重心が移動した。叙事詩は、主題から解釈するとき、寓話となる。『坊っちゃん』以後の学校を舞台とした作品は、主人公は個人として以上に(学生の立場も含めて)職業人として存在するため、諷刺的・百科全集的になっている。『坊っちゃん』にもそうした要素がないわけではないが、登場人物たちが固有名詞を避けられあだ名というエピソード的なものによって命名されているように、坊っちゃんが職業人として以上に個人として語っているため、寓話的・エピソード的な側面が強い。エピソード的なものに、清だけが固有名詞で登場している程度に、百科全集的なものが混在している。個人としてのみ主人公が語る場合、その作品は抒情詩的になってしまうのだが、『坊っちゃん』では、主人公に内面や心理に関心がないため、その危険性は回避されている。
 『坊っちゃん』のセンテンスには「……から、……」や「……ので、……」などといった並列的な構文が多い。これは行為の理由を明かしていても、自己反省ではない。坊っちゃんは内省的であり、気分を行為の原理としている志賀直哉の幼稚な主人公とは遠く離れている。価値判断や因果関係、順序には関心が払われていないのである。文章は、時として、論理的ではない。語り手にとって関心のないものごとは、読み手がどう思おうと、省かれている。小森陽一は、「『坊っちゃん』の〈語り〉の構造−裏表のある言葉」において、この作品の語りを「私的言語」と「公的言語」という観点から分析しているが、こうした読解は近代認識論的に基づいた作品に対しては可能であろうけれども、最初から意味をなさない。語り手は語り手自身に語っているのである。しかし、それはモノローグではない。文章構造は洗練されておらず、全体的な配慮やダイナミズムに欠けているが、極めてスピード感に溢れているのである。けれども、それは決してスタンダールのような軽やかさは持っていない。むしろ、スピードをもてあまし、不器用ですらある。遠近法的印象を与えないのはこの並列的な構文によって語る一人称の語り手にあることは明瞭である。この語り手は告白や私小説のそれとは異なり、近代認識論的な遠近法に基づいていない。それは一つのカオスを提示しているのである。『坊っちゃん』はそのカオスを描いた叙事詩なのである。叙事詩という様式によってその論理や倫理は、後に詳しく述べるように、古代ギリシアに隣接している。そこにあるのは狂騒であり、過剰であり、坊っちゃんはディオニュソス的である。そして、清はゼウスに棄てられ、ディオニュソスの妻となったアリアードネにほかならない。
 『坊っちゃん』が叙事詩的であるとしても、近代以前の文学への回帰というアイロニー、すなわち文学的記憶の想起と解釈することは、確かに、日本では新渡戸稲造の武士道崇拝や岡倉天心のアジア主義などのノスタルジックなマイナーなグループへのアイロニカルな愛着的態度もすでにあったし、またヴィクトリア朝の終焉とともに始まった反ロマン主義文学者にもそうした傾向があったことから見るならば、不適当ではないとも言える。しかし、回帰的傾向は、漱石の場合、弱い。なるほど漱石の作品に落語や漢文学、江戸文学などの影響が見られることは認められる。落語と漱石の文学とを検討する試みがおこなほけているが、落語的な要素があることは認められる。だが、漱石は、その類似にもかかわらず、落語の持つ笑いとは異質である。『坊っちゃん』はエピソード的・寓話的で、ファルスの笑いを所有しているが、古典落語の笑いは、落語にもいくつかパターンがあるけれども、本質的には、言葉遊びと諷刺に基づいている。
 また、柄谷行人は、『意識と自然』において、坊っちゃんをドン・キホーテであると次のように述べている。
 
 坊っちゃんとはドン・キホーテである。すなわち、女中のお清との間にのみ存在しえた「正義」や「秩序」を、現代社会のなかでなんの疑いもなく生きようとするドン・キホーテである。もとより、坊っちゃんのなかにあるものがすでに神話にすぎないことを漱石が心得ていることは明らかなので、『坊っちゃん』が今もわれわれにとって魅力を持つのは漱石の痛切な自己認識によるのである。
 確かに、坊っちゃんは主観=客観の図式に基づいた近代認識論的な「正義」や「秩序」にしたがって生きてはいない。そして『坊っちゃん』を含めて、漱石の作品は、正宗白鳥を筆頭にした当時の文壇においては、アナクロニズム的存在であった。坊っちゃんは、その意味で、ドン・キホーテであろう。しかしながら、『坊っちゃん』を、そのことで、近代小説以前の作品に描かれていた世界と見なすのは早計であ
る。江戸期の文学が基づいていたのは封建制の世界であって、『坊っちゃん』の世界は、学校という設定を考慮すると、これまでになかった世界なのである。漱石について語るとき、つねに問題はそれを論ずるものの時代の側にある。坊っちゃんは「女中のお清との間にのみ存在しえた『正義』や『秩序』を、現代社会のなかでなんの疑いもなく生きよう」としているわけではない。坊っちゃんの行動は、清を考慮しているのではないのだから、坊っちゃんと清との間に「正義」や「秩序」は存在していないのである。
 『坊っちゃん』は、漱石が『ドン・キホーテ』を評価していたことは事実だが、柄谷が指摘するようなドン・キホーテ的ではない。ミゲール・デ・セルバンテス・サベードラ(一五四五ー一六一六)の『ドン・キホーテ』(原題『才智あふれる郷士 ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』)は前編が一六〇五年に、後編が一六一六年に発表された。スペインのラ・マンチャ地方の郷士キハーノは、騎士物語を読み耽ったあげく、自ら騎士ドン・キホーテと名乗り、従士としてサン・チョパンサを従えて、世の中の不正を正すために諸国歴方の旅へ出るが、風車を巨人に、宿屋を城に、漕役刑に向かう囚人たちを暴政の犠牲者にし、破れても、打たれても、悪を見出だして邁進するドン・キホーテは、いわゆる現実主義的なサン・チョパンサととぼけた会話をしながら、冒険をする。
 セルバンテスは、『ドン・キホーテ』前編第四巻二十八章において、ドン・キホーテについて次のように書いている。
 
 いとも大胆な騎士ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャを世に送った時代こそ、まことにたのしい、幸福な時代であった。なぜかと言えば、すでに凋落して、ほとんどほろびていた遍歴の騎士なる制度をよみがえらせ、世の中に再現しようという、じつにけなげな決心を彼がいだいたおかげで、この心浮きたつ楽しみ少ないこのわれらの時代に、彼の実録の面白さばかりか、部分的には物語そのものに劣らず楽しい、技巧と真実に富んだ、実録の中に現われる短編や神話の面白さをわれわれはいま存分に味わうことになったからである。
 『坊っちゃん』にはこうした意識的な姿勢はない。われわれは、クラシックでは、ビゼーが何よりも好きであるが、『ドン・キホーテ』における語り手と書き手の関係と『坊っちゃん』のその関係は異なっている。『坊っちゃん』には、『ドン・キホーテ』に見られるようなノスタルジーがない。
かといって、映画『ベティ・サイズモア(Nurse Betty)』(二〇〇〇)のようでもない。『坊っちゃん』は学校を舞台にしており、『ドン・キホーテ』以上に過去と訣別している。『坊っちゃん』が勧善懲悪のパロディーとするならば、武士を主人公にするはずで、このような設定は不必要である。ドン・キホーテは、セルバンテスのこの自覚に基づいて、ロマンスのパロディーとしての性格を担っているが、他方、主人公坊っちゃんは、漱石がこのような自覚を書き表していないように、『ラ・クンパルシータ』の歯切れのいいタンゴのリズムは感じられても、勧善懲悪のパロディーにふさわしい性格を必ずしも担っていないのである。『坊っちゃん』はお家の一大事にかけつける殿様の時代劇とはかけ離れている。オデュッセウスやアキレウスのように、坊っちゃんの怒りは怒りであり、恨みには転化しない。共感や愛着、好意、敬意などによってしか登場人物に接することができないものたちにただたんに登場人物の行動を楽しむことを『坊っちゃん』は告げているのである。
 主人公坊っちゃんは自分自身を次のように言っている。
 
 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間程腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使いに負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
 ただ「無鉄砲」で負けん気が強くて階段から飛び降りるだけではなく、「二階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるか」と親父に説教されて、それに「この次は抜かさずに飛んで見せます」と答えるユーモアが坊っちゃんの魅力の一端なのだ。従って、漱石の諸ジャンルの書きわけを文学的記憶を想起しようとすることとしてとらえることは、彼が文学を空間的な分類化を志向していたように、できないのである。
 スティーヴンソンの『宝島』を思わせる冒険活劇のスタイルの『坊っちゃん』の登場人物は大きく五つのカテゴリー−−第一に坊っちゃん、第二に赤シャツと野だ、第三に生徒たち、第四にうらなりや山嵐、そして最後に清−−にわかれる。それぞれ五つの倫理と論理を持って動き、それがコントラストをなして物語を構成している。この論理と倫理は、全体を通じて、それを保持したものから離れることはない。従って、彼らの倫理や論理は、坊っちゃんのそれと比較・検討することによって、明瞭になる。
 坊っちゃんは、他の漱石の作品の主人公たちが一様に線が細いのに対して、力強い。神経衰弱などに絶対に苦しめられることのないパワフルかつエネルギッシュで天衣無縫に遠心力で生きる坊っちゃんのような人物は、『門』の宗助のような求心力で生きる人物は表われてきたものの、漱石の作品に以後登場することはなかっただけでなく、日本文学においても登場することはなかった。それどころか、学校を舞台にした作品は文学に限らずさまざまな芸術ジャンルにおいてもこれまで多くあるが、坊っちゃんのような主人公は描かれていない。啄木の『雲は天才である』の主人公のほうが、むしろ、後の芸術においてはよく見られるのだ。従って、『坊っちゃん』は、日本芸術史において、学校を舞台にする作品の規範となったが、主人公に関するかぎり、孤独で、思った以上に、奇妙な作品なのである。
 坊っちゃんは、同僚からは「華奢」で「小作り」の「愛嬌」のある「勇肌の坊っちゃん」と見なされ、生徒たちは坊っちゃんにまったく好意的ではない。坊っちゃんには誰もついていけず、浮いた存在であった。つまり、坊っちゃんは「各人は彼固有の洞窟のようなものを持っており、それが彼自身の性格や教育、環境によって、自然の光を屈折させたり弱めたりする」といった「洞窟のイドラ」(フランシス・ベーコン『ノーヴム=オルガヌム』)にあるものと見なされているのである。
 しかしながら、坊っちゃんは生徒がどうなろうと学校がどうなろうと知ったことではないし、職に対してまったく執着がないのだ。
 
 ほかの教師に聞いてみると辞令を受けて一週間から一カ月くらいの間は自分の評判がいいだろうか、悪るいだろうか非常に気に掛かるそうであるが、おれは一向そんな感じはなかった。教場で折々しくじるとその時だけはやな心持だが三十分ばかり立つと綺麗に消えてしまう。おれは何事によらず長く心配しようと思っても心配が出来ない男だ。教場のしくじりが生徒にどんな影響を与えて、その影響が校長や教頭にどんな反応を呈するかまるで無頓着であった。おれは前に云う通りあまり度胸の据った男ではないのだが、思い切りは頗るいい人間である。この学校がいけなければすぐどっかへ行く覚悟でたから、狸も赤シャツも、些とも恐しくはなかった。まして教場の小僧共なんかには愛嬌も御世辞も使う気になれなかった。
 坊っちゃんは対人関係に関して「無頓着」である。学校に対しても仕事に対してもまったく執着がない。しかし、それは坊っちゃんは無欲もしくは純粋なのではなく、ただ関心がないだけのことを意味しているのである。坊っちゃんは陽気に暴れまくり四国を去っていったが、四国であのような行動に出た坊っちゃんが東京でおとなしくしていたとは思えないと、『「坊っちゃん」試論−小日向の養源寺』において、平岡敏夫は指摘しているけれども、坊っちゃんは本質的に他人に無関心であるわけだから、たまたま四国ではもめることがあったからで、それがなければ別に何事も起こらない。
 さらに、坊っちゃんは、他人に対してだけでなく、自分自身に対しても「無頓着」である。
 
 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師がいる。月給は四十円だが、行ってはどうだと云う相談である。おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎へ行く考えも何もなかった。尤も教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席に返事をした。これも親譲りの無鉄砲が崇ったのである。
 坊っちゃんは、自分自身にも「無頓着」であるため、計画性を持ってはいない破天荒な人間であるが、行動家なるものではない。「行動家の世界は」、三島由紀夫の『葉隠入門』によると、「いつも最後の一点が付加することで完成される環を、しじゅう眼前に描いているようなものである。瞬間瞬間、彼は一点をのこしてつながらぬ環を捨て、つぎつぎと別の環に当面する」。すなわち、行動家は、永遠は耐え難いから、行動によって自らの意識を納得させなければならないものであって、彼らは、思弁家と同様、自意識過剰の自己完結的・自己絶対的な人間にすぎない。一方、坊っちゃんは、「只智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ、あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る」、と言っている。坊っちゃんは敗北を忘却し、勝利に向けて新たに出発するのだ。坊っちゃんは自己を保存しようとする必要性にしたがって解釈している。坊っちゃんにとってその解釈だけに関心があり、自己保存をめぐって関心を持つ必要がないものには、働き掛ける行為には出ないのだ。つまり、坊っちゃんにとって、重要なのは行動そのものではなく、いかなる困難に直面しようとも、自分自身に与えられた生に対して力を尽くして働きかけ、永遠の運動を欲することである。
 このように坊っちゃんの「無頓着」は一つの力であり、近代認識論的・自意識的世界に属しているものではないある倫理と論理を体現しているわけだが、坊っちゃん自身はその倫理と論理を、赤シャツや野だのそれと比較して、次のように語っている。
 
 議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向は赤シャツの方が重々尤もだが、表向かいくら立派だって、腹の中まで惚れさせる訳には行かない。金や威力や理屈で人間の心が買えるものなら、高利貸でも巡査でも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭位な論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌で働らくものだ。論法で働らくものじゃない。
 赤シャツはホホホホと笑った。別段おれは笑われる様な事を云った覚はない。今日只今に至るまでこれでいいと堅く信じている。考えてみると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励している様に思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だの難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだろう。赤シャツがホホホホと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる世の中じゃ仕様がない。清はこんな時に決して笑った事はない。大に感心して聞いたものだ。清の方が赤シャツより余っ程上等だ。
 坊っちゃんの「好き嫌」、すらわち「よい=わるい」はまず「好き」が先にあって、「嫌」がその後に定義される。坊っちゃんにとって「好き」は利他的な評価ではなく、行為者自身の直接的かつ能動的である力の自己規定として現われている。それは物事を深く認識する精神の力以上に、「生」を決定的に肯定する能動的な力にある。坊っちゃんは、ニーチェが『道徳の系譜』において述べている「騎士的・貴族的評価様式」に基づいた「力強い肉体、若々しい、豊かな、泡立ち溢れるばかりの健康、並びにそれを保持するために必要な種々の条件、すなわち戦争・冒険・狩猟・舞踏・闘技、そのほか一般に強い自由な快活な行動を含むすべてのもの」を前提にしている。「力を持つ」、「つねに創造する」、「生を楽しむ」といったことの自己肯定的な感情が坊っちゃんにとっての「好き」の本来的な起源である。それに対して、狸、赤シャツ、野だ、下宿の主人などといった『坊っちゃん』の登場人物たちは「わるくなる事を奨励している」俗物主義、権威主義、営利主義、権力の論理で動いている。竹盛天雄は、『坊っちゃんの受難』において、坊っちゃんに「その無風流、反文学・反芸術の徹底した純粋さの中に、裏返しされた一個の芸術家像を透視できるように思う」し、それゆえ、「単純化極端化による『型』の文学の発揮する強烈な諷刺性、暗示力を見出さざるをえない」、と述べているが、坊っちゃんは、古代ギリシア的な意味を考慮するならば、「一個の芸術家像」であることは適切な指摘であめけれども、『坊っちゃん』が「型」の文学であるとしても、「諷刺性」には乏しい。確かに、江戸時代に見られる「単純化極端化による『型』の文学」はアイロニー様式、あるいは「低次模倣様式」(フライ)を保持しており、「強烈な諷刺性、暗示力」に基づいている。だが、『坊っちゃん』はファルスであり、寓話・エピソードである。その「単純化極端化」は、「わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい」と書かれているように、人間が、生を肯定する際に、文化を持つことの根本的意味を一切の価値観に抗って明らかにすることのフィクションなのである。
 坊っちゃんは、自分に「いたずら」をした学生に対して、彼らの倫理や論理を次のように感じている。
 
 けちな奴等だ、自分で自分のした事が云えない位なら、てんで仕ないがいい。証拠さえ挙がらなければ、しらを切る積りで図太く構えていやがる。おれだって中学に居た時分は少しはいたずらもしたもんだ。然しだれがしたと聞かれた時に、尻込みをする様な卑怯な事は只の一度もなかった。仕たものは仕たもので、仕ないものは仕ないに極っている。おれなんぞは、いくら、いたずらをしたって潔白なものだ。嘘を吐いて罰を逃げる位なら、始めからいたずらなんかやるものか。いたずらと罰はつきもんだ。罰があるからいたずらも心持ちよく出来る。いたずらだけで罰は御免蒙るなんて下劣な根性がどこの国で流行ると思ってるんだ。(略)おれは言葉や様子こそ余り上品じゃないが、心はこいつらよりも遥かに上品な積りだ。六人は悠々と引き揚げた。上部だけは教師のおれより余っ程えらく見える。実は落ち付いているだけで猶悪るい。おれには到底これ程の度胸はない。
 「いたずらと罰はつきもんだ」と信じている坊っちゃんにとって、「いたずら」は禍いを是認し、罪を是認し、それによって生じた苦悩をも是認するプロメテウスが体現したような「能動的な罪」(ニーチェ『悲劇の誕生』)である。坊っちゃんは「正義」を求めるだけではない。学生を非難するのは自らが絶対に傷つかない位置に置いて他人を冷笑しているのが許せないからである。言うまでもなく、学生の笑いとは、男でも女でも暗く排他的で自己欺瞞的・自己倒錯的で無知・傲慢・卑屈なゲットーをつくり、そこでの無言の理解に基づく隠語的なものに戯れたがる以上、古今東西この程度のものであって、それをとやかく言うことは、大人気ないと言えば大人気ない。しかし、不健康なものに対して不健康と言う健康さこそ真に大人のすることなのである。学生たちは、坊っちゃんにとっての倫理や論理の価値評価の原理は直接的で能動的な力の自己規定に基づいているのに対して、まず否定の評価を提示し、その反動として物事に対する判断基準を立てる。つまり、学生たちの倫理や論理の原理は反動的・消極的なもので、坊っちゃんに対するアイロニーによって、表われてくるものにすぎない。坊っちゃんはからかわれやすいが、それは彼が強者だからなのだ。明るく蹴っても踏んでも少々のことでは死なないような生命力の強い人間は、弱者から、その無力さをごまかすために、からかわれやすいものである。
 坊っちゃんには一切の自意識は排除されているため、自己の絶対化や自己の正当化といった自意識の倒錯がなく、「単純」ではあるけれども、素朴ではない。自分自身の力をよく認識し、つねに最善を尽くし、それでも成し遂げられないことはそれとして認めることである。坊っちゃんは自分の生き方やその充実感を他人の評価だけから判断することなく、その基準を自分自身のうちに持っているのだ。しかし、それは子供じみた駄々ではない。坊っちゃんは、「親切は親切、声は声だから、声が気に入らないって、親切を無にしちゃ筋が違う」と言っているように、志賀直哉の私小説の主人公のような「気分」に基づいた甘ったれた大馬鹿野郎でもないのである。好悪を激しく発する志賀直哉の場合は、彼の私小説が「不快」に始まり「調和的気分」に終わるように、学生たちと同様、まず「嫌い」という否定的な評価を基礎に置き、次にその反動として「好き」を対置する。彼らは、その受動性ゆえに、「能動的な罪」から逃避するのである。つまり、坊っちゃんは、学生たちや志賀直哉のような、知性の軽蔑者ではないのだ。
 第四のカテゴリーに属するうらなりと山嵐の倫理と論理は、赤シャツ・野だや生徒たちのそれよりも、坊っちゃんのものと密接に関連している。
 その関連はニーチェが、『ツァラトゥストゥラ』において、語った「三段の変化」のことである。
 
 わたしはあなたがたに、精神の三段の変化について語ろう。どのようにして精神が駱駝となるのか、駱駝が獅子となるのか、そして最後に獅子が幼な子になるのか、ということ。
 精神にとって多くの重いものがある。畏敬の念をそなえた、たくましく、辛抱づよい精神にとっては、多くの重いものがある。その精神のたくましさが、重いものを、もっとも重いものをと求めるのである。
 どういうものが重いものなのか? と辛抱づよい精神はたずねる。そして駱駝のようにひざを折り、たくさんの荷物を積んでもらおうとする。どういうものがもっとも重いものなのか、古い時代の英雄たちよ? と辛抱づよい精神はたずねる。わたしもそれを背負い、自分の強さを感じてよろこびたい。
 わが兄弟たちよ! なんのために精神において獅子が必要なのであろうか? 重荷を背負い、あまんじ畏敬する動物では、どうして十分でないのであろうか?
 新しい価値を創造する、−−それは獅子にもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手にいれること−−これは獅子の力でなければできない。
 自由を手にいれ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてすること、わが兄弟たちよ、このためには獅子が必要なのだ。
 新しい価値を築くための権利を獲得すること−−これは辛抱づよい、畏敬をむねとする精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。まことに、それはかれには強奪にもひとしく、それならば強奪を常とする猛獣のすることだ。
 精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。こうしてかれはその愛していたものからの自由を奪取するにいたる。この奪取のために獅子が必要なのである。
 しかし、わが兄弟たちよ、答えてごらん。獅子でさえできないことが、どうして幼な子にできるのだろうか? どうして奪取する獅子が、さらに幼な子にならなければならないのだろうか?
 幼な子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自力で回転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。
 そうだ、創造の遊戯のためには、わが兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていた者は自分の世界を獲得する。
 うらなりは「駱駝」であり、山嵐は「獅子」であり、そして、坊っちゃんは「幼な子」である。「駱駝」は「多くの重いもの」、すなわち思想上の重荷をを負い、それに「辛抱強い」精神でもって耐え、そのことによって自らの「強さ」を感じるものである。「孤独の極みの砂漠」の中、第二の変化が生じ、「駱駝」から「獅子」へと精神は移行する。「獅子」は「自由」な精神である。それは自分の背負っていた重荷がいかなるものであるかを解明・認識し、この「巨大な龍」と闘うようになるのだ。しかしながら、「最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬ」ことを認識する「獅子」は「新しい価値を築くための権利を獲得する」ことはできても、それを創造することは不可能である。「新しい価値」を創出するためには、「獅子」から「幼な子」へと精神はさらに第三段目の変化をする必要がある。「幼な子」は「無垢」と「忘却」の力を持っている。そして、その力によって「幼な子」は「然り」という「聖なる」言葉を持つに至るのである。「創造の遊戯」のためには、「聖なる肯定」、すなわち「然り」がなければならず、その肯定によって「自分の意志を意志する」とき、「世界を失っていた者は自分の世界を獲得する」のだ。「幼な子」は生がどれだけ生き難いものとして現われても、にもかかわらず、過ぎ去った一切のことを「忘却」して、つねに現にある瞬間瞬間を最大限に生きようとする「無垢」に立ち返る力を持っている。「幼な子」になるとは、この「無垢」の力に立ち返ることである。「獅子」や「駱駝」はまだ反動的な評価の圏内にいるが、反動的な力を克服している「幼な子」はよいことを求め、わるいことは「忘却」する。「幼な子」は他人にとってよい子ではなく、自分にとってよい子になろうとするのである。つまり、ただたんに深くまたは広く物事を認識する精神の力よりも、「生」に対する「聖なる肯定」によって「新しい価値」を創造することこそが必要なのだ。
 うらなりや山嵐、すなわち「駱駝」や「獅子」にとっては、『坊っちゃん』の結論は敗北になるだろう。しかし、それは、「無垢」に戻る力を所有した「幼な子」たる坊っちゃんにとっては、決して敗北ではない。なぜならば、彼は過ぎ去ったすべてを「忘却」するからである。山嵐はうらなりを助けているのだが、坊っちゃんはほとんど助けることなどない。それは、「獅子」にとって「駱駝」はその前段階であるが、「駱駝」は「幼な子」へと一気に変化することはできないからである。坊っちゃんと山嵐とは教頭たちを殴った理由は違う。山嵐は「神聖な否定をあえてすること」のために、一方、坊っちゃんにとっては「自分の意志が意志する」から、二人は赤シャツや野だを殴ったのだ。
 学校を舞台にしたドラマにおける、いわゆる青春ドラマに限らず、主人公は、坊っちゃんではなく、むしろ、山嵐のヴァリエーションである。啄木の『雲は天才である』を含めた後の学園ドラマは、そうした主人公を中心に、管理=反管理の機軸を中心に展開している。坊っちゃんの存在は学校においてはさほど影響がない。うらなりや山嵐、マドンナと野だや赤シャツらが織り成すドラマと坊っちゃんの存在はほとんどかかわっていないのだ。坊っちゃんを登場させずに、山嵐やうらなりを軸にしても、漱石はこれ以後小説から坊っちゃんを消し去り、そこにうらなりや山嵐のヴァリエーションとも言える人物を登場させているように、ある種の物語を形成することは十分可能である。『坊っちゃん』以後の『門』や『彼岸過迄』、『こころ』、『行人』などに見られる筋の分裂の萌芽が、ある意味では、すでに用意されている。
 そうした分裂はうらなりとマドンナの密会シーンによっても強調される。
 
 温泉の町を振り返ると、赤い灯が、月の光の中にかがやいている。太鼓が鳴るのは遊郭に相違ない。川の流れは浅いけれども早いから、神経質の水の様にやたらに光る。ぶらぶら土手の上をあるきながら、約三丁も来たと思ったら、向に人影が見え出した。月に透かして見ると影は二つある。温泉へ来て村へ帰る若い衆かも知れない。それにしては唄もうたわない。存外静かだ。
 段々歩行いて行くと、おれの方が早足だと見えて、二つの影法師が、次第に大きくなる。一人は女らしい。おれの足音は聞きつけて、十間位の距離に逼った時、男が忽ち振り向いた。月は後からそしている。その時おれは男の様子を見て、はてなと思った。男と女は又元の通りにあるき出した。おれは考があるから、急に全速力で追っ懸けた。先方は何の気もつかずに最初の通り、ゆるゆる歩を移している。今は話し声も手に取る様に聞える。土手の幅は六尺位だから、並んで行けば三人が漸くだ。おれは苦もなく後ろから追い付いて、男の袖を擦り抜けざま、二足前へ出した踵をぐるりと返して男の顔を覗き込んだ。月は正面からおれの五分刈の頭から顎の辺りまで会釈もなく照す。男はあっと小声に云ったが、急に横を向いて、もう帰ろうと女を促すが早いか、温泉の町の方へ引き返した。
 ここの文章は、先に引用した文章と違って、何かを想起するように描写している。スピード感が失われ、シンボリックな表現形態がとられている。この夜の記述は昼の記述と明瞭なコントラストをなしている。昼の記述は過剰さを持てあました狂騒であるのに対して、夜になると、夢幻化され、個体化され、形象化された記述である。"I see your smile nobody knows in the night"
(Dunkelziffer "I See Your Smile").『坊っちゃん』は全体としてはディオニュソス的ではあるが、こうしたアポロ的なものが表われてくる。このイデーは、もちろん、欠点などではなく、坊っちゃんの一つの力としての存在を際立たせている。後の作品ではこの分裂が目立ってしまうのは、主人公が一般的な人間のレヴェルにあるからである。共感や愛着、好意、敬意をも必要としない坊っちゃんは、彼らにとって、繊細さのかけらもなく、慎みを欠いたものにすぎない。坂口安吾その人をわれわれに思い浮かべさせる傍若無人にして神経質な坊っちゃんは管理=反管理の機軸からズレ、明らかに、非管理で生きているのである。
 うらなりも、坊っちゃんとは違った意味で、自分の住み慣れた場所から離れていく。漱石の作品には、よく指摘されることだが、三角関係が登場してくる。中心的人物は三角関係の一角にいるのだが、『坊っちゃん』においては三角関係は登場してくるものの、三角関係の一角にいるのはうらなりであって、主人公の坊っちゃんはこの三角関係と無縁なのである。『坊っちゃん』の場合、『猫』と同様、三角関係は後の作品に見られるような三角関係そのものの秘める構造と力に焦点があてられているわけではない。『こころ』では三角関係そのものが作品読解の鍵になっているが、『坊っちゃん』では三角関係は図式的なレヴェルにとどまっており、坊っちゃんの体現している倫理や論理に比べれば、二次的なものにすぎないのである。マドンナが愛しているのはうらなりであって、他の男ではない。三角関係と言っても、それは女一人と男二人がいるという程度のものであって、三角関係それ自体によって人が動くというものではないのだ。この三角形が形成されているのは綺麗な女性と貧乏だが気持ちのいい男性がいてお互いに好意をよせていたが、権力を持った金持ちが経済的に困った女性の家の弱みにつけこんだというものでしかない。『坊っちゃん』では、三角関係以上に、坊っちゃんという表現が主眼なのである。
 そして、『坊っちゃん』は次のような記述によって閉じるのだ、
 
 その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去る程いい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、漸く娑婆へ出た様な気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない。
 清の事を話すのを忘れていた。−−おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄を提げたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれも余り嬉しかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと云った。
 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。死ぬ前日におれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんの御寺へ埋めて下さい。御墓の中で坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと云った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。
 清の家は江藤淳が言うような「地の底の“妣なるもの”の潜む場所」ではない。この部分は、『坊っちゃん』と比べると、はるかに暗い『夢十夜』の「第一夜」を想起させる。それは、死に瀕した女が「自分」に、「百年、私の墓の傍に座って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」と言って死んだので、「苔の上に」座って「墓を眺め」ながら待っていると、「骨に徹える程」匂う「真白の百合」の辧が開き、「白い花辧に接吻」して、「百合から顔を離す拍子に思わず遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いて」いて、「百年はもう来ていたんだな」と気がつく、という話である。女が百年たったら逢いにくると言ったのは、「自分」が死んでしまうこと、すなわち死ぬことによってのみ「自分」はその女に誰にもいかなることにも邪魔されずに逢うことかできるということを意味している。漱石が、『坊っちゃん』執筆当時、死に関心を持っていたことは認められる。『猫』も猫の死によって閉じている。しかし、こうした表現を死への憧憬と解するべきではない。死においてすらも一緒になることが許されていないと解釈する必要があろう。『夢十夜』の「第一夜」や坊っちゃんと清の関係をめぐってはこれまでさまざまな議論が提示されてきた。あるものは漱石のエディプス・コンプレックスの表われと解釈しているし、また別のものは漱石の近親の女性に対する秘められた願望だと見ている。かりに恋愛の観点から読解する場合、漱石の恋愛を解く鍵は死ではなく、この墓に対するこだわりにある。漱石は、実際の死を迎えたときほとんど墓に対する執着を、鴎外とは逆に、まったく示さなかったように、墓というもの全般に対してこだわっていたのではない。
 ニーチェは、『ツァラトゥストゥラ』の「墓の歌」において、次のよう語っている。
 
 おお、おえたち、わたしの青春の夢とまぼろしよ! おお、おまえたち、すべての愛のまなざし、おまえたち、神的な瞬間たちよ! どうしておまえたちは、そんなにも早く死んでしまったのか! きょう、わたしはおまえたちを、亡き人々を偲ぶように、偲ぶ。
 わたしの最愛の死者たちよ、おまえたちから、甘い香りが漂ってくる。心を弱くし、涙をもよおそせる香り。まことに、それは海をただひとりわたって行く者の心をゆすぶり、弱めずにはおかぬ。
 わたしは孤独だ、−−しかし、依然として最も豊かな、最も羨まれるにあたいする者でねある! なぜなら、わたしはおまえたちを待っていたし、そしておまえたちはわたしを、いまなお待っているからなのだ。言ってごらん。いったいわたし以外の誰のところに、あれほど多くのばら色のりんごの実が、木から落ちて来ろう?
 おお、最愛の死者たちよ! いまもなお、わたしはおまえたちの愛の王国であり、その継承者だ。そこにはおまえたちを偲ばせる諸悪がおいしげり、さまざまな花をつけている。
 ああ、わたしたちは睦みあうように作られていたのだ。おまえたち優しい、よそから来た奇跡よ。そしておまえたちは、おすおずと近づく小鳥のように、わたしのもとに、わたしの欲望が待っているところに、来たのではなかった、−−いや、信頼にみちた者として、信頼を惜しまぬ者のところにやってきたのだ!
 おまえのなかには、わたしの青春のみたされなかったものが、いまだに生きつづけている。その生きつづけている青春として、おまえは、おまえが崩した黄色い墓石の上に、なお希望しつつ、腰をおろしている。
 そうだ、わたしの意志よ、いまもおまえは、わたしにとって、あらゆる墓の破壊者なのだ。健やかなれ、わたしの意志よ! 墓のあるところにだけ、復活はある。−−
 「青春」において、「みたされなかったもの」は死者となり、「墓」へと葬り去られる。しかし、その「青春」は生きつづけ、みたされることを「希望」している。それを無視したり隠蔽しようとするとき、ルサンチマンとして「復活」し、そのものの生を脅かすことになる。「墓」が「青春のみたされなかったもの」へ捧げられたものであるならば、それをみたすことこそが真に望まれることなのだ。「墓のあるところにだけ、復活はある」として、「意志」が「あらゆる墓の破壊者」であるとするならば。意志は永遠を欲しているということになろう。それは「意志」によって「青春」をみたし、「墓」を破壊してしまうことによって可能になるのである。「青春」、すなわちロマン主義的な理想や情熱は、自分自身を一瞥もしない現実に直面し、挫折し、みたされることなく、その理想と現実との間の矛盾に苦悩することになる。理想の描き出すように生きたいけれども、そうすることは困難だから、それを「墓」に葬り、通俗的になったり、怨恨や後悔によって自らの生を否定し、その反動によって生きるようになってしまう。しかし、そうした生き方はその人間に真に充実感をもたらさない。「青春」の理想が現実の中ではなかなか生き延びられないことを考慮した上で、にもかかわらず、それを生き延びさせるような突破口を探り、さらに突き進んでいける可能性を意欲的に求めることこそが大切のだ。
 従って、漱石の墓に関する記述も、むしろ、こう考えるべきだろう。これは一つの追憶であり、一つの反復であり、一つの反芻であり、永劫回帰への第一歩である、と。
 ここまで『坊っちゃん』についてニーチェを援用して分析をしているわけだが、今までの漱石受容の歴史から考えると、これはいささか逸脱した試みだということは否定できない。と言うのも、漱石がニーチェの『ツァラトゥストゥラ』を英訳で詳細に読んでいたことは知られているが、彼は、ニーチェに関して言及した部分では、ニーチェに対して必ずしも肯定的ではなかったからである。
 しかし、そうした言葉とはまったく逆に、漱石がニーチェに極めて隣接していたことは、『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』を執筆していた時期である一九〇五ー〇六年の断片が、次のように告げている。
 
 二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや。甲でも乙でも構はぬ強い方が勝つのぢや。理も非も入らぬ。えらい方が勝つのぢや。上品も下品も入らぬ図々敷方が勝つのぢや。賢も不肖も入らぬ。人を馬鹿にする方が勝つのぢや。礼も無礼も入らぬ。鉄面皮なのが勝つのぢや。人情も冷酷もない動かぬのが勝つのぢや。文明の道具は皆己れを調節する機械ぢや。自らを抑へる道具ぢや、我を縮める工夫ぢや。人を傷けぬ為め自己の体に油を塗りつける(の)ぢや。凡て消極的ぢや。此文明的な消極な道によつては人は勝てる訳はない。−−夫だから善人は必ず負ける。君子は必ず負ける。徳義心のあるものは必ず負ける。清廉の士は必ず負ける。醜を忌み悪を避ける者は必ず負ける。礼儀作法、人倫王常を重んずるものは必ず負ける。勝つと勝たぬとは善悪、邪正、当否の問題ではない−−power
デある。−−willである。
 ここで漱石は「二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ」という生物の存在要請の根源として意識ではなく、「power 」、すなわち力や「will」、すなわち意志の問題を見出している。漱石は生命活動の中で論理や倫理を把握している。この世界には多様な差異が現われ出ているが、それを可能にしているものとして漱石は「意志」や「力」を認めている。より強く生きようとする力、すなわち生命体としての存在要請はその身体や環境に応じてさまざまな形になる。そうした生命体のより強く生きようとする根本的な衝動こそが、ニーチェの言う「力への意志」である。
 『虞美人草』や『こころ』など、『坊っちゃん』以後の作品は、必ずしもニーチェ的ではないが、少なくとも、この時点では漱石はニーチェ的な「力への意志」の思想を保持している。漱石が何から影響を受けたのか否かということの真偽をめぐる議論以上に、思想が漱石に何をもたらしているのかということを考察するほうが有意義であろう。つまり、それは漱石が、ニーチェ的な哲学に隣接することによって、いかなる生の世界へと誘われているのかということなのだ。漱石は、『坊っちゃん』以後も、生きることとは何かではなく、生きることを可能たらしめているものは何かという問いを根源に据えていたことは変わらなかった。漱石は、この点では、ニーチェと問題を明らかに共有しているのである。そうした彼のニーチェ読解は、今日的に見て、和辻哲郎などよりもはるかにすぐれていた。ニーチェを理解するためには古代ギリシアがわからなければならないのだが、それに関する認識は、ニーチェから影響されたというものには、ほとんどなかった。一方、漱石の場合は、主人公坊っちゃんが彼の古代ギリシア的な世界に関する認識が十分あったことを示している。坊っちゃんは文学にはまったく「無頓着」な中学校の数学教師である。しかし、坊っちゃんの前にある文学は内面や自意識を描いているのであって、それは坊っちゃんが自然科学が盛んで、そうした思想がそのまま哲学や文学となっていた古代ギリシア的な世界、正確にはプレ・ソクラテス的な世界に属していることを告げている。坊っちゃんの卒業した物理学校は一八八一年に創立した東京物理学校(東京理科大学)のことである。坊っちゃんは一九〇二年(明治三五年)九月に入学し、一九〇五年七月に卒業している。小野一成の『「坊っちゃん」の学歴をめぐって−明治後期における中・下級エリートについての一考察−』によれば、この学校は入学することはやさしいが進級・卒業はなかなか大変なものであったので、坊っちゃんは、落第を一度もしていないことから、優等生だったことになるらしい。当時は正規の教師の絶対数が足りず、坊っちゃんのような無資格教師が多くいた。小野一成によると、坊っちゃんが、教師をやめた後、東京市街鉄道株式会社の技術職員になったことは、その学歴から考えても、妥当であった。と言うのも、物理学校は、主に、教員と技術者を輩出していたからである。東京の小学教師の月給は、巡査などと同じく、十から一三円くらいであったことから見るならば、坊っちゃんの教師時代の給料四十円は明らかに高額である。だが、それは、教師不足の地方にあって、教師確保のための優遇策であった。また、辞職後についた技師の二五円は、当時帝大卒の第一銀行の行員の月給が三五円であったことを考えれば、決して安くはないのだ。四十円が高すぎるのである。鉄道技師は必ずしもブルー・カラーではなく、『大阪朝日新聞』には、阪堺鉄道開通の際、鉄道員の制服が着たいという理由で、あるブルジョアが雇ってくれないかと願い出た−−会社側が彼を丁重に断ったらしい−−記事が載ったくらいだったのだ。こうした点からも、坊っちゃんは文学や哲学には明るくはないが、数学や科学といった領域はなかなか向いているプラグマティックな人間だということが明瞭になろう。坊っちゃんが知性を感じさせる所以はここにある。坊っちゃんに対する誤解が生じるのも、『坊っちゃん』を読むものたちが文化系の領域には知識があるが、理科系には疎んじているからであろう。
 漱石は、むろん、『坊っちゃん』によってプレ・ソクラテスへの回帰を促しているわけではない。
 ロンギノスは、『崇高について』において、自分の生きている軍政ローマの時代と古代ギリシアを比べて、次のように憧憬をよせている。
 
 子どもの幼い四肢を緊縛することによって、その一生を小人にとどめることができるのだが、それと同じだ。われわれの若い精神は、奴隷的偏見と慣習によって拘束され、みずからを拡大することが不能で、古代人の円満美妙の偉大に達しえない。古代人は人民本位の政治のもとに生活していたので、その行動と同じ自由をもって著作したのである。
 漱石は、ロンギノスと同様、「古代人」、すなわち古代ギリシア人に憧れている。古代ギリシア人はコスモロジーを持っていた。しかし、それは、今日のさまざまな宗教が描いているコスモロジーのごとく生き難さが要請するものではなく、生への意欲が導き出したものである。古代ギリシア的世界に目を向けるならば、自分自身の生に向き合わざるを得ない。人は、その時、より高い生を創造することを求めるようになるのだ。現在、日本文学の世界には自意識の人間、自意識の過剰さに悩む人間、去勢コンプレックスに怯える人間が多くやってくるため、自意識を軸にしてしか作品を解釈できないのだ。『坊っちゃん』のような古代ギリシア的側面を持つ自意識の彼岸を体現した作品を彼らは読むことができない。例えば、「漱石文学における『甘え』の研究」で土居健郎は、坊っちゃんと清の関係に「甘え」が見られるなどという去勢コンプレックスにとらわれた病的な主張をしている。彼の読解は、志賀直哉の作品に対して行えば適切であるかもしれないが、古代ギリシアをまったく理解できないことを告げているだけで、我田引水的なものでしかない。彼の「甘えの構造」といった思考そのものが去勢コンプレックスの表われにすぎないのだ。清は、ロンギノスが「古代人」に対してそうしているように、坊っちゃんに対する憧れの圏内に生きているのであって、彼女が語っているのは夢である。その夢が既存の価値観に基づいていたはかないものであることは否定できないとしても、それは坊っちゃんという強きものへの憧れが発しているものであり、生の感触として表われているものである。土居健郎にはこの憧れという力への意志をわからない。清は坊っちゃんとともに生きられたことに感謝・満足している。坊っちゃんを「駱駝」や「獅子」のレヴェルではなく、「幼な子」としてとらえている清の倫理や論理は、坊っちゃん以外の他の四つのカテゴリーの中で、生に対する「聖なる肯定」を向いており、最も健康的なのだ。
 要するに、主人公坊っちゃんは、他の四つのカテゴリーの所属者が大なり小なりニュートン古典力学的な作用=反作用によって倫理や論理を保持していたのに対して、生命活動の中で、すなわち「力への意志」によって倫理や論理が育成されているのである。このような倫理や論理を具現しているため、『坊っちゃん』のような作品は、近代日本人にとって、扱いにくい作品となっているのだ。『坊っちゃん』に関する満足のいく分析は今日に至るまでただの一つもないとあえて挑戦的に断言してもよかろう。
 学生たちの黒板を使ったからかいが食べ物に集中しているが、天麩羅蕎麦を一気に四杯食べ、団子を二皿平らげる坊っちゃんは−−椀こそば大会をよく知っているわれわれにすれば、この程度の量をからかいのねたにしていることからも、漱石はよっぽど食が細かったのだろう−−、漱石とは違って、丈夫な消化器を持ち、胃弱などではまったくなく、胃潰瘍になどなりそうもない。「英国帰りの大インテリである」漱石が坊っちゃんのような主人公を創出した意味は決して小さくはないだろう。江藤淳が言うように、漱石は、確かに、「外国語」によってでも、「近代思想」によってでも、「いわんや近代小説理論」によってでも生きてはいない。しかし、漱石を「生得の言葉によって、生得の倫理観によって、生きている」わけではない。「生得」のものに回帰し、カタストロフを迎えさせるだけでは、壊れてしまった精神をつなぎとめようとしているものにとって、むしろ、逆効果になる。漱石が『坊っちゃん』に何を投影したのかという議論はさまざまにあることだろう。ただ、自分の分身であると同時に、自分自身にできなかったあらゆるしがらみと関係なしに縦横無尽に動きまわれる人間を創出する必要性をルサンチマンとしてはならない。精神の治療のために書いたとすれば、それは自分自身の生を肯定する動機からである。漱石に何があったのかはわからない。自分と同じ江戸弁を話し、「小作り」で「華奢」な人間で四国を去って、見合い結婚をして熊本に行くのではなく、愛する人のもとへ向かい、たとえたいした仕事ではなくともたとえ大きな家でなくともいいから、一緒に生きて一緒に年をとり、死んだ後でさえも同じ墓で一緒にいる−−そんな願望を、もしかしたら、漱石は持っていたのかもしれない。それは、ドイツのロック・バンドDunkelziefferの傑作アルバムア『IN
THE NIGHT』における「Sunday Morning」の一節を思い起こさせる。「君の言うことなどどうでもいい。君のことなどどうでもいい。Sunday Morning She's Gone. Sunday Morning No One Lays.昨日のことなどもう忘れた。昨日のことなど遠くのこと。Sunday Morning She's Gone. Sunday Morning No One Lays.この世のこととは思えない。この世のこととは思えない」。しかしながら、秘められた想いなど知る必要もないだろう。われわれが知るべきなのは、『坊っちゃん』は、漱石がいかなることがあったとしても、それにもかかわらず、生を肯定するために書いた本だということである。
 
うつろなあなたを 心のこもった君に、
彼女は それと知らずに 変えた。
そしてあらゆる幸せな思いを、
愛する心に かきたてた。
彼女の前に 思いに沈んで わたしは立っている。
彼女から 目をそらすことはできない。
わたしは彼女に言う 「あなたはとてもお美しい」、
そして心では思う 「君をとても愛している」。
わたしはあなたを愛していました。その愛はおそらくいまも、
わたしの心の中で すっかり消え去ってはいないでしょう。
けれどそれも もうあなたの心をさわがせはしますまい。
わたしは 決してあなたを 悲しませたくはないのです。
わたしはあなたを愛していました ひそかに望みなく、
あるいは気おくれに あるいは嫉妬に なやみながら。
わたしはあなたを愛していました、あまりにも優しく 心から、
どうかあなたが 他のひとに愛されてほしいとねがうほどに。
(アレクサンドル・セルゲヴィチ・プーシキン)
 
 いくつかの精神的な病はコミュニケーション=言葉によって引き起こされるが、それは、ロマン主義者たちが言うように、言葉を拒むことによって治癒などしないのであって、言葉によりとらわれることによってしかその病は治らないのである。それは言葉による新たな価値を創造することにほかならない。冗談を言いあい、批判しあい、こきおろしあい、傷つけあい、足をひっぱりあい、ふみにじりあい、そこでその人間たちでなければありえないような単独な関係として価値を創出することが言葉の目標なのである。
 だから、漱石自身は『坊っちゃん』について、『文学談』において、次のように述べているのだ。
 
 『坊っちゃん』の中の坊っちゃんと云う人物は或点までは愛すべく同情を表すべき価値のある人物であるが、単純過ぎて経験が乏し過ぎて現今の様な複雑な社会には円満に生存しにくい人だなと読者が感じて合点しさえすれば、それで作者の人生観が読者に徹したと云うてよいのです。(略)人が利口になりたがって、複雑な方ばかりをよい人を考える今日に、普通の人のよいと思う人物と正反対の人を写して、ここにも注意して見よ、諸君が現実世界にあって鼻の先であしらって居る様な坊っちゃんにも中々尊むべき美質があるではないか、君等の着眼点はあまりにも偏屈ではないか、と注意して読者が成程と同意する様にかきこなしてあるならば、作者は現今普通人の有している人生観を少しでも影響し得たものである。
 坊っちゃんのようになれば生きることにつきまとうさまざまな困難や苦悩が消えるわけではない。むしろ、これまで以上に苦悩は増していく。にもかかわらず、坊っちゃんのような生にあるものはその苦悩をわが身に引き受けて生きることを欲するのである。坊っちゃんのような共感=感情転移とは無縁の人間にとって近代的な世界は「生存しにくい」。と言うのも、自意識にとって重要なのは感情転移だからである。坊っちゃんのような人間を、自意識の人間にとって、嘲笑することはたやすいだろう。しかし、坊っちゃんのような人間を彼らが理解することは難しいだろう。登場人物は経験的世界を生きる人間に比べてはるかに「単純」であり、怒りや喜び、悲しみなどが、この世界の中で、あるがままに肯定されている。漱石がこの生き方を到達すべき理想として提示しているのではない。「坊っちゃんにも中々尊むべき美質があるではないか、君等の着眼点はあまりにも偏屈ではないか」、すなわち漱石が坊っちゃんという主人公によって語りたかったのは、現にあるわれわれ自身にとって坊っちゃんとは何かを問いかけて欲しい、「現実世界」に生きるわれわれの時代の持つ問題から読んでほしいということなのである。『坊っちゃん』の世界は近代に対する浄化として描かれているわけではなく、近代小説の世界の相対化として書かれている。また、それはこうも言える。「現今普通人の有している人生観を少しでも影響し得たもの」であろうかということを望んでいる漱石は、『坊っちゃん』によって、生にどうしようもなくつきまとう困難や矛盾に苦悩するわれわれを慰め、励ましているのだ。それゆえ、「胃潰瘍に苦しんだ男対坊っちゃん」という図式から『坊っちゃん』を読むことは、漱石が坊っちゃんを欲するか否かという問いを提示しているのだから、誤謬である。坊っちゃんとは誰であるかや清とは誰であるかという問題系を含めた『坊っちゃん』に対する読解者たちは「利口になりたがって、複雑な方ばかりをよい人を考える」まさに裏切り行為をしているのであり、『坊っちゃん』は表面的には明るい作品であるが、潜在的には、暗さを秘めているといった読解は、『坊っちゃん』に関する批評において頻繁に見られるわけだが、まったく病的なのだ。
 漱石は、『坊っちゃん』を通じて、次のように語りたかったのである。
 
 けれども困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない模範としての意義をもっているということを理解する点にある。
 おとなはふたたび子供になることはできず、もしできるとすれば子供じみるくらいがおちである。しかし子供の無邪気さはかれを喜ばさないであろうか、そして自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階でみずからもう一度努力してはならないであろうか。子供のような性質のひとにはどんな年代においても、かれの本来の性格がその自然のままの真実さでよみがえらないだろうか? 人類がもっとも美しく花をひらいた歴史的な幼年期が、二度とかえらないひとつの段階として、なぜ永遠の魅力を発揮してはならないのだろうか? しつけの悪い子供もいれば、ませた子供もいる。古代民族の多くはこのカテゴリーにはいるのである。ギリシャ人は正常な子供であった。かれらの芸術がわれわれにたいしてもつ魅力は、この芸術が生い育った未発展な社会段階と矛盾するものではない。魅力は、むしろ、こういう社会段階の結果なのである、それは、むしろ、芸術がそのもとで成立し、そのもとでだけ成立することのできた未熟な社会的諸条件が、ふたたびかえることは絶対にありえないということと、かたくむすびついていて、きりはなせないのである。
(マルクス『経済学批判序説』)
 
 人生において、人間が行う精神活動は二つしかない。一つは忘却することであり、もう一つは想起することである。この忘却の力はあまりに大きいので、生への意欲すらも、力への意志すらも、人間に忘れさせてしまうのだ。忘却の力が真にそうであるのは、「忘却の野」で「放念の河」の水を飲んで以来、忘れたということまでも忘れさせてしまうからである。想起の力によって、人間は生への意欲を思い出す。人間は、生に「然り」と言うために、幼子のうちは、すべてを忘れ、大人になってからは、幼子のころの感触、すなわち生への意欲を思い出し、そして、死んでゆくが、そのとき、「これが生きるということであったのか? よし! もう一度!」と言いきれるのだ。
 人間は、この世に、泣いて生まれてくる。それは人間が生きることにはどうしようもなく苦痛がつきまとうことを知っているからである。だからこそ、人間は笑うことを、それも、言葉を覚える前に笑うことを覚えるのだ。かのゾロアスターは、歓喜の霊であるワフマンが彼の脳髄と合体したおかげで、笑いながら生まれた。「ゾロアスターは生まれたその日に笑った。そして彼の脳はひどく動悸を打っていたので、頭にのせられた手をはじき返すほどであった。これは彼の将来の知恵の前兆であった」(プリニウス『博物誌』)。つまり、苦悩に満ち溢れた生を望ましいものとするために、人間は笑うのである。人間は笑う動物、「ホモ・リーデンス」だ。漱石の「低徊趣味」はそのような笑いの比喩にほかならない。“The child is father of the man” (William Wordsworth “My Heart
Leaps Up”).
 そう、漱石は『坊っちゃん』を書くことによって、こう自分自身の生に言い聞かせたのである。
 
 いってみれば、ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、ずいぶん危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである。
 おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるものが超自我であることは事実であるとしても、われわれとしては、超自我の本質について学ぶべきことがまだまだたくさんあることを忘れないでおこう。ついでながらいうと、人間誰しもがユーモア的な精神態度を取りうるわけではない。それは、まれにしか見出されない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたユーモア的快感を味わう能力すら欠いているのである。そして、最後にいっておくが、超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から守ろうとするということと、超自我は両親が子供にたいして持っている検問所としての意味を受けついでいるということとは矛盾しないのである。
(フロイト『ユーモア』)
 
愛の甘いなごりに あなたはまどろむ
天使のようなその微笑みに 時は立ち止まる
窓に朝の光が やさしくゆれ動き
あなたの髪を ためらいがちに染めてゆく
美しい人生よ かぎりない喜びよ
この胸のときめきをあなたに
この世に大切なのは
愛し合うことだけと
あなたはおしえてくれる
愛は風のささやき あなたは目覚める
子供のような瞳を向けて 指をからめるよ
そっと肌をよせれば 水仙の花のような
やさしい香りが はじらうようにゆれている
美しい人生は 言葉さえ置き忘れ
満ち足りた二人を包むよ
この世に大切なのは
愛し合うことだけと
あなたはおしえてくれる
美しい人生よ かぎりない喜びよ
この胸のときめきをあなたに
二人に死がおとずれて
星になる日が来ても
あなたと離れはしない
美しい人生よ かぎりない喜びよ
この胸のときめきをあなたに
二人に死がおとずれて
星になる日が来ても
あなたと離れはしない
美しい人生よ かぎりない喜びよ
この胸のときめきをあなたに
二人に死がおとずれて
星になる日が来ても
あなたと離れはしない
La・・ La・・La・・
(松崎しげる『愛のメモリー』)
〈了〉